
今回はバンド結成からデビューに至るまでのMr.Childrenについて解説していくよ♪
Prologue〜出会い〜
本記事はバンドの結成〜デビューまでがメインですが、まずは4人の“出会い”を簡単に紹介しておきましょう。
小学生
メンバー同士の“出会い”は、小学生時代まで遡ります。
最初に出会ったのは田原健一と中川敬輔。
当時二人は別々の小学校に通っていました。
ただ、共通していたのが「野球に夢中だった」ということ。
特に田原さんは地元でも上手いと評判で、その噂を聞いていた中川さんは「一度会ってみたい」と思っていたそうです。
そこで彼は友人を介して、田原さんを自分の通う塾へと誘い、念願の対面を果たします。
これこそがメンバー間で最も古い“出会い”だったのです。
ちなみに桜井さんとJEN(鈴木英哉)もまた、当時は別々の学校に通っていました。
そのため、小学生時代に接点があったのは田原さんと中川さんの二人だけです。
中学生
中学生になると、メンバーの関係図は少し変わります。
同じ中学校に進学したのは、田原健一・中川敬輔・そして鈴木英哉(JEN)の3人。
とはいえJENに関しては、田原さん・中川さんとは顔見知り程度で、まだこの頃は話したこともありません。
一方で、桜井さんだけは別の中学校で過ごしていました。
そしてこの時期、彼らに共通して訪れたものがあります。
それは、“音楽との出会い”でした。
桜井さんは中学2年の頃に、姉からギターを譲り受けたことがきっかけ。
その姉から「あなたは天才ね」と言われた話は有名です。
一方、田原さんと中川さんは、高校進学を目前に控えたころ、初めて自分の楽器を購入。
「いつかバンドを組みたい」そんな未来を思い描きながら楽器屋さんへ。
そしてJENも、中学3年でドラムを購入したそうです。
そのそれぞれの“始まり”が、やがて一本の線となって交わっていく。
中学時代は、まさにそんな物語の序章となる時期でした。
バットをギターに持ち替えろ!
1985年春
高校に進学すると、メンバーの関係は再び大きく動き始めます。
桜井和寿、田原健一、中川敬輔の3人が同じ高校へ入学。
JENは別の高校に進みましたが、そこで早くもバンド活動をスタートさせていました。
桜井さんは、“軽音楽部に入りたい”という思いだけでその高校を選び、入学後は迷わず軽音楽部へ入部し、音楽漬けの日々が始まります。
中川さんも同じく軽音楽部へ入部。
これが、桜井さんと中川さんの正式な出会いとなりました。
一方、田原さんはというと、入学後は野球部へ進みます。
小学生の頃から続けていた野球を、もう一度本気でやろうと決めていたのです。
ある日のこと。
桜井さんがギターを背負い、軽音楽部の部室へ向かって歩いていると、同じクラスだった坊主頭の野球部員とすれ違います。
その野球部員こそ田原健一。
ふと桜井さんのギターケースに目を留め、田原さんがこう話しかけます。
「これ、テレキャスター?」
突然の“ギター用語”に桜井さんはびっくり。
「野球部員がエレキギターの種類を知っている!?」
田原さんは続けてこう言います。
「僕はストラトを持っているんだけど…」
この会話をきっかけに、ふたりは一気に距離を縮め、音楽の話で盛り上がる仲になっていきました。
(とは言いつつも、実は田原さんは前々から桜井さんがギターを弾いているのを横目で見ていて、桜井さんのノートにこっそりバンドの名前を書いてみたりして、小さなアピールをしていたそうです。)
ある日、桜井さんの耳に、気になる噂が入ります。
“田原が野球部を辞めるらしい”。
そして桜井さんは、田原さんに向けてあの名言を放つのです。
「バットをギターに持ち替えろ!」
田原さんは、野球についてこう感じていました。
「野球は好きだったけど野球部はあまり好きになれずレギュラーにもなれるかどうか…そんなことを考えると野球に対する情熱がなくなった。」
桜井さんのひと言は、そんな揺れ動く田原さんの心を後押しするものでした。
そして田原さんは、野球部を退部し、坊主頭をやめ、軽音楽部へ入部することを決意します。
これが、のちに日本の音楽シーンを動かしていく“運命の第一歩”だったのです。
Beatnik
こうしてついに、Mr.Childrenの前身となるバンド『Beatnik(ビートニク)』が結成されます。
バンド名の由来は、桜井さんが当時から大好きだった甲斐バンドのファンクラブ会報誌「Beatnik」 から拝借したものだそうです。
メンバーは、桜井和寿・田原健一・中川敬輔の3人に加えて、当時のドラム担当の男性とキーボード担当の女性を含めた5人編成(田原さんからもう1人ギターがいたと語る記事もあり)。
「甲斐バンド」や「ECHOES」などのコピーから始めていったそうです。
ただ、バンドは結成したものの、「Beatnik」 は部室を使用することができませんでした。
実はその理由が2つ存在します。
パターン①先輩が占領していた
パターン②ナカケーが退学したため
(共に公式を通した情報であり、どちらが事実なのかは分からないため両方記載させていただきます※②説が濃厚)
そのため、彼らは街中の音楽スタジオを借りて練習することに。
しかしここで大きな問題が…。
お金がない
街のスタジオで練習するとなると、当然ながらお金がかかるのです。
最初のうちはなんとか工面しながら通っていましたが、バイトもできない学生生活の中では限界が訪れます。
次第に、「この状況でバンドを続けていくのは厳しい…」と感じるメンバーが出てきました。
やがて、当時のドラムが脱退。
残されたのは桜井・田原・中川・キーボードの女性の4人。
しばらくは桜井さんがドラムを叩きながら歌っていたそうです。
クリスマスナイト
1985年12月
男メンバー3人、それぞれに彼女がいた高校1年クリスマスの時期。
(ちなみに桜井さんの彼女はメンバーのキーボード担当の女性)
「みんなで曲をプレゼントしよう」というアイデアが彼らの中で浮かびました。
彼らはオリジナルのクリスマスソングを作り、近所の小さなスタジオで録音することに。
曲名は『クリスマスナイト』。
バンドとして初のオリジナル曲となりました(桜井さんが初めて作ったオリジナル曲は誰にも聴かせていないそうです)。
桜井さんいわく「工夫がない」と苦笑するタイトルです。
ドラムとピアノは桜井さんが弾いたそうです。
そして迎えたクリスマス当日。
桜井さんは彼女と電車に乗って湘南へ。
冬の海辺を「つめたーい」と言いながら歩き、まるでドラマのワンシーンのような時間を過ごします。
帰りの電車で彼女が眠ってしまったその隙に、桜井さんはそっとテープを彼女の鞄へ。
インデックスには直筆でこう添えてありました。
「今日はどうもありがとう。曲を聴いてください」
青春そのものの、不器用で真っ直ぐな贈り物ですね。
ちなみにこの曲は2012年12月22日、23日に[(an imitation)blood orange]Tourのナゴヤドーム公演で弾き語りされました。
さて「Beatnik」は、この辺りでまた新たにドラムが加入。
バンドは再び動き出し、これまでのコピー中心の活動から、オリジナル楽曲を優先していく路線へと進化していきます。
ちなみにその頃、別の高校で活動していたJENはというと…なんと6つか7つのバンドを掛け持ちしていたという話もあるほど、最も順調に音楽活動を進めていたそうです。
THE WALLS
1987年 春
1987年春、高校3年生となった「Beatnik」。
桜井さんは軽音楽部の部長に就任します。
また、彼らのこの頃バンド名を頻繁に変えていました。
最終的に決まったのが、田原さんの発案で今ではファンの間では有名な名前…『THE WALLS』。
そう名乗るようになります。
初のライブハウス出演
1988年4月
改名した彼らは、遂に初のライブハウス出演を果たします。
場所は吉祥寺の「シルバーエレファント」。
ライブでは甲斐バンドのコピーなども演奏していたそうです。
その後も西荻窪のライブハウス「WATTS」などにも出演し、着々と経験を積んでいくTHE WALLS。
そして彼らはこの年、ソニー主催のオーディションに挑みます。
グランプリを取ればプロデビューが約束されるという、まさに大勝負。
なんとTHE WALLSは、そのオーディションで決勝まで勝ち進みました。
しかし、ここで信じられない事態が起こります。
ドラム脱退
決勝を控えているにも関わらず、なんとここでドラムが脱退…!
決勝は12月に開催される予定で、プロデビューが決まるかもしれない大事な舞台。
この大舞台に人数が足りないという緊急事態…!!
桜井さんは焦ります。
「とにかくドラムを見つけなきゃダメだ!」
「誰でもいいから叩ける人はいないか!?」
彼らは楽器店や練習スタジオに行き、買い物や練習に来ていたドラマーらしき人へ次々と声をかけていきました。
しかし、なかなか見つかりません。
練習では苦肉の策でまた桜井さんがドラムを叩きながら歌うという始末…。
決勝戦はどんどん迫ってくる。
どうする?
このままでは出場すらできない。
THE WALLSは追い詰められていきました。
この絶体絶命のタイミングで、“あのドラマー” が、ついに物語の舞台に姿を現します。
JEN加入
1988年9月
吉祥寺のライブハウス「シルバーエレファント」。
彼らが初めてステージに立ったその場所で、THE WALLSはとある企画ライブに出演していました。
そこで田原さんと中川さんは、対バン相手「フェアリーランド」のメンバーの中に、見覚えのあるシルエットを見つけます。
「ん? あれ……中学で一緒だった鈴木じゃない?」
驚きとともに近づいて声をかける二人。
彼こそ、後にMr.Childrenの土台を支えるドラマーとなる、鈴木英哉、通称JENでした。
当時、THE WALLSはオーディション決勝を目前に控えていたものの、ドラムが固定しておらず、正直“誰でもいいからドラムが必要”というギリギリの状況。
桜井さん自身も「もう、ドラム叩けるなら誰でもよかった」と冗談混じりに語るほど。
桜井さんは鈴木英哉に「決勝だけでいいから叩いてくれないか?」と声をかけます。
そんな必死の願いに、JENは誘いを受け入れます。
ただし加入には条件がありました。
それは、この時応募中だった浅香唯さんのバックバンドオーディションの審査に落ちた場合のみ。
結果、書類選考で落ち、一時加入が決まりました…が!
しかしJENはすぐに、桜井さんが書き上げる楽曲のクオリティに衝撃を受け、サポートではなく正式加入の道を選んだのです。
ちなみにJENが加入した頃にキーボードの女性は脱退したようです。
1988年12月18日
ついに、優勝すればデビューが約束されるオーディションの決勝の日がやってきました。
ここまで勝ち進んできたTHE WALLS。
しかし結果は、残念ながら落選。
この日、グランプリを獲得しデビューへの切符を手にしたのは、
後に大ブレイクを果たすTHE BOOMなど、数組のバンドだったと伝えられています。
Mr.Children
1988年12月末
オーディションに落選した彼らは、渋谷のロイヤルホストに集まり、とある“重要な話し合い”を行います。
それは“改名”についてでした。
JENの正式加入も決まり、翌年1月1日から心機一転、バンド名を一新することになります。
最初に候補として挙がったのが 「Children」。
これには、当時の彼らが好み、影響を受けていた様々なものが関係していました。
・イギリスのバンド「THE MISSION」の2ndアルバム『CHILDREN』
・ロバート・キャパの写真集『The Family of Children(世界の子供たち)』
・そして彼らが最も影響を受けたU2のアルバムジャケットに頻繁に登場する“少年の姿”。
10代の頃からずっと触れてきた作品の根底に“子供”というシンボルがあった。
その響きに、どこか運命的なものを感じたのです。
しかし「Children」だけでは、どこかシンプルで寂しい。
“The”をつけるバンドはたくさんいるからやめよう。
そこに付け加えられたのが “Mr.” でした。
桜井さんは後に、こう語っています。
「“ミスター”と“チルドレン”は正反対に思えるけど、“形にこだわらない”“カテゴライズされない”という意味で、自分たちの音楽が大人から子供まで幅広い人たちの心に残るものになって欲しくて、この言葉を組み合わせた」
つまり、「境界を越える音楽」という願いを名前そのものに刻んだのです。
1989年1月1日
そして年明けと同時に最後の改名。
桜井和寿/田原健一/中川敬輔/鈴木英哉
『Mr.Children』の誕生です!
ちなみに一般的には「Mr.Children」という表記が最も広く使われていますが、時期によって微妙に表記が異なります。
アマチュア時代のフライヤーやカセット音源では 「MR.CHILDREN」 とすべて大文字で表記されていた時期があり、デビュー当初の雑誌などでは 「mr.children」 のように小文字で書かれているケースも少なくありません。
さらに、ベストアルバムや周年企画など、特別なタイミングでは 「MR.CHILDREN」 の大文字表記が再び使用されることもあります。
渋谷La.mama
オーディションには受かりませんでしたが、彼らはここで止まりません。
“Mr.Children”として本格的に走り出します。
それまで出演していたライブハウス、吉祥寺「シルバーエレファント」や西荻窪「WATTS」から、バンドは新たな勝負の場として「渋谷La.mama」へ活動の拠点を移しました。
La.mamaでは、昼間の「オーディションライブ」を突破しないと、本番といえる夜のステージには立つことができません。
多くのバンドがこの関門で苦戦する中、見事クリア。
念願の夜の部へ進出します。
そしてここから、確かな手応えをつかんでいきます。
まずは約30人ほどのファンを獲得。
小さな一歩ですが、確実に“応援してくれる人たち”が増え始めるのです。
余談:アマチュアとインディーズの違い
さて、少し話がそれますが、皆様Mr.Childrenのデビュー前は「アマチュア」か「インディーズ」どちらが正しいと思われますか?
ネットを見ていると、 「アマチュア」と「インディーズ」 を同じ意味だと捉えている方が少なくありません。
この機会に、その違いを簡単に整理しておきましょう。
まず、この頃のMr.Childrenを“インディーズ時代”と呼ぶのは誤りです。
【インディーズとは何か?】
・正式な事務所に所属している
・さらにその事務所を通して CDが全国流通している
こういった条件を満たしているアーティストのことを指します。
メジャーではないけれど、しっかり事務所のバックアップがあり、全国のCDショップに作品が並ぶ。
これが“インディーズ”というカテゴリーです。
そしてその上にあるのが、広告・宣伝・制作・ツアーなどを大規模に支えてくれる「メジャー」という存在。
では、当時のMr.Childrenはどうだったのか?
彼らは事務所に所属しておらず、制作したカセットテープも完全に手売り。
全国流通もなければ、商業的な後ろ盾もありません。
つまり、デビュー前のMr.Childrenは、“アマチュアミュージシャン”というのが正しい表現なんですね。
この違いを理解しておくと、アマチュア時代のMr.Childrenがどれだけ手作りで活動していたか」「そこからメジャーへ駆け上がることがいかに大変だったか」という背景がよりリアルに伝わるかと思います。
さぁそして彼らは、Mr.Childrenとして初の、そんな“自主制作”テープを発売します。
Hello, I Love You
1989年 8月
1989年8月、Mr.Childrenは初の自主制作カセットテープ「Hello, I Love You」 を完成させます。
レコーディング場所は、東京都・狛江にあるスタジオガレージ。
なぜここで録ったのかというと、JENが当時このスタジオでアルバイトをしていたからだそうです。
完成したテープは1本300円。
ライブ会場を中心に手売りされ、収録曲は以下の4曲です。
【Hello, I Love You】
01. この雨あがれ
02. ベルリンの壁
03. Chu Chu Chu
04. 君だけの一日
当時の定番曲『この雨あがれ』。
「THE WALLS」の頃、社会科の授業中に書いたと言われている『ベルリンの壁』など、今聴いても名曲揃いの作品です。
そして、この頃のMr.Childrenはライブを重ねるごとに新曲をどんどん披露していきました。
その中でも代表的なのが、当時ファンからのアンケートでも人気が高かった 『トムソーヤの詩』。
さらに、カセットタイトルにもなっている 『Hello, I Love You』も、初期の名曲として語り継がれています。
こうした楽曲がライブハウスで少しずつ浸透し、Mr.Childrenは着実にファンを増やしていくことになります。
そよ風の唄
1990年5月
彼らは2本目となる自主制作テープを発売します。
価格は前作と同じく300円。
収録内容はこちら
【そよ風の唄】
01. トムソーヤの詩
02. Mr. Sunshine
03. Oh My God
04. 風
ライブで圧倒的な支持を得ていた人気曲 「トムソーヤの詩」を収録。
そして注目すべきは4曲目の 「風」。
これは後に1stアルバム『EVERYTHING』に収録される「風 〜The wind knows how I feel〜」 の原型になった、大切な曲のひとつです。
「Oh My God」も、初期の名曲のひとつと言えるでしょう。
MAGIC MELODIES
1990年9月
Mr.Childrenは初のオムニバス作品『MAGIC MELODIES 〜TURN TO THE POP II〜』に参加します。
きっかけは、オムニバスCDの制作スタッフ・角田典子さんが渋谷クラブクアトロで定期的に行っていたイベント「TURN TO THE POP II」に、ミスチル出演交渉をしたのが始まりだったそうです。
収録されたのはこの2曲。
・Happy Birthday
・Mr. Tambourine Man(Bob Dylan カバー)
「Happy Birthday」 は現在もカラオケ(JOYSOUND)配信されているため、歌ったことのある方も多いのではないでしょうか。
CDは都内近郊のCDショップに3000枚ほど出回ったようですが、ほとんど売れなかったそうです。
さて、当時の彼らは、ライブ・曲制作・レコーディングを同時進行で精力的に行い、楽曲のストックもどんどん増えていきました。
Mr.Childrenとしての音楽性が本格的に形になり始めた、ターニングポイントと言える年ですね。
スカウト
この頃になると、ライブハウス界隈での評判も上々。
多くのプロデビューへのスカウトがかかるようになります。
そしてこの時期、彼らは後に長く運命を共にする人物トイズファクトリー代表「稲葉貢一」氏と出会います。
稲葉さんは当時をこのように振り返ります。
「ボーカルがすごく目立つバンドだな、というのが最初の印象。何か、突き抜けた存在感があったんです。でもその反面、少し暗めの雰囲気もあった。だから、今すぐにうちでやらないかと声をかける感じではなく、その感覚の一歩手前発展途上のバンドだと思いました。」
この時はまだ桜井さんの連絡先を聞いただけだったようです。
そして当時、他にも様々なスカウトが彼らに向けられていました。
中には、「桜井和寿をソロでデビューさせたい」という話を持ちかける関係者もいました。
もちろんそれらは断り、かつその他のスカウトも簡単には受け入れませんでした。
というのも、当時は空前のバンドブームであり、次々とバンドがメジャーデビューをしていく時代でしたが、桜井さんは「このブームに乗っかってしまうとブームが去った後、消え去るのでは…」という直感があったそうです。
初のワンマンライブ
1990年11月
Mr.Childrenは大阪・名古屋ツアーを決行。
地方へ足を伸ばすほど活動は本格化し、確実にファン層を広げていきました。
当時のツアーは桜井さんが運転をして移動していたことは有名な話です。
1990年12月
ここで、彼らにとって大きな節目となる出来事が訪れます。
-Mr.Children、初のワンマンライブを開催!-
記念すべき初ワンマンは渋谷Lamamaで決行。
クリスマスシーズンということもあり、来場者へのプレゼントとして新たな自主制作テープを配布しました。
そのタイトルと収録内容がこちら。
【19:00発、Xmasトレインに飛び乗れ!】
01. Merry Merry Christmas
02. Jen’s Christmas
03. 二日遅れのクリスマス
『Jen’s Christmas』という曲はJENがギターの弾き語りで歌った曲のようです。
『二日遅れのクリスマス』は、のちに『DOME TOUR 2005 “I ♥ U”』でも披露されたことで知られていますが、その原点はこのテープにあったわけですね。
3ヶ月の活動休止
ワンマンライブも成功を収め、順調に見えたMr.Childrenの勢いに、まさかのブレーキがかかります。
1991年1月
なんとこのタイミングで、3ヶ月間の活動休止。
理由は、元々ワンマンをやったら少し休もうと思っていた。
かつ、“マンネリを感じていたから”。
ツアーも成功、デビューの誘いも増えていた。
そんな“上り調子の今”だからこそ、「いったん立ち止まらなければ、バンドがダメになる」と感じていたのでしょう。
活動休止中、4人はあえて音楽から離れ、それぞれが生活のためのバイトに専念しました。
桜井さんの曲制作の手は止まりませんでしたが、活動をいったんゼロに戻し、バンドを見つめ直す期間だったとも言われています。
そんな迷いと同時に、Mr.Childrenが本当の意味で自分たちの音楽に向き合い始めた時期とも言えますね。
TOY’S FACTORY
1991年3月
彼らは「渋谷La.mama」へ戻ってきました。
活動休止中も曲作りは続けており、新曲「友達のまま」「力」「ドドンパなど」を披露しつつ、精力的に活動を続ける彼らですが、この時、La.mama関係者から返ってきたのは、まさかの不評でした。
「メッセージ性がなくなった」
「もう活動をやめた方がいいんじゃないか?」
そんな厳しい声が、真正面から突き刺さります。
3ヶ月間の活動休止を経て、“新しいMr.Children”を見つけようとした直後、まさに再出発のタイミングで、これほど否定的な意見を浴びるのは、精神的にも相当こたえたはずです。
ただ、そんな時期にただ一人、Mr.Childrenのサウンドに耳を傾け、その変化を“劣化”ではなく“進化”として受け取っていた人物がいました。
それが、あの時連絡先を交換していた、後に彼らが所属することになる「トイズファクトリー」代表 稲葉貢一氏でした。
そしてその時点で、メンバーの心が決まりました。
バンドとしての未来を託す相手が、ここではっきりと見え始めていたのです。
1991年5月〜6月
その後、桜井さんは当時「JUN SKY WALKER(S)」のメンバーだった寺岡呼人さんのバンド「ヒズフレンズ」のツアーに参加します。
この時期に誕生したのが、あの 「星になれたら」 。
その縁もあり、JUN SKY WALKER(S)の楽曲 「I WANT YOU」になんと“デビュー前の桜井さん”がコーラスとして参加。
まだ「Mr.Children」の名前すら広く知られていない時代に、その歌声はすでにプロの現場へと足を踏み入れていたというわけですね。
最後のセルフプロデュース
1991年7月
Mr.Childrenは2度目のワンマンライブを成功させ、さらに新たな作品を発表します。
それがこちら。
【MR.CHILDREN】
01. CHILDREN’S WORLD
02. 車の中でかくれてキスをしよう
03. 友達のまま
デビューもほぼ決まっていたため、レコーディングにはレコード会社のスタッフの協力があったようです。
そしてこの作品がアマチュア時代最後のセルフプロデュース作品となりました。
今ではどれもファンにとって馴染み深いタイトルばかりですね。
さぁ、そして遂に、人生を変える日がやってきます。
契約
場所は新宿の「DUG(ダグ)」というジャズ喫茶。
ここで、トイズファクトリー代表が改めて彼らを呼び出します。
やってきたのは桜井さんとJENの2人。
その場で語られたのは、Mr.Childrenへの可能性を感じた真摯なアプローチ。
その誠意に心を動かされ、その場で「やろう!」と即決。
Mr.Childrenは遂にメジャーレーベルとの契約を交わすことになりました。
ちなみにですが、彼らの初任給は77777円だったそうです。
さぁそこで、トイズファクトリー代表からとある人物を紹介されます。
契約も決まった。
あとは、デビューに必要な最重要ピース…そう、プロデューサーです。
小林武史
1991年11月
運命の出会いの場となったのが渋谷の「K’s BAR」というお店。
その奥で彼らを待っていたのは、小林武史。
Mr.Children の未来を決定づける“最重要人物”と言っても、言い過ぎではありません。
しかし、この初対面、なんともぎこちなく、温度差のあるものでした。
桜井さんから小林さんへの第一印象は、「機嫌が悪そうだったし、目つきも鋭かった」。
一方で小林さんは、「彼らは全くしゃべらないので、ほとほと困った」。
慎重に相手を測っていた…そんな空気です。
しかし、ここからすべてが動き始めます。
後に日本の音楽シーンそのものを変えることになる“小林武史× Mr.Children” という最強のタッグは、この小さなバーで静かに結ばれました。
メジャーデビューへ向けて
メジャーデビューが決まり、Mr.Childrenはレコーディング作業へと入っていきます。
そこで小林さんの提案で、メンバーの緊張をほぐす為にも、小林さんの自宅にてデモテープ作りを行うことに。
プロの現場に慣れていない彼らを、いきなり本格的なスタジオに放り込むのではなく、“緊張をほどく場所” から始めようとしたのです。
当時のMr.Childrenは、すべてを自分たちで作り、自分たちだけで完結させてきたバンド。
プロのレコーディング現場に飛び込めば、理不尽な欲求に応えなきゃいけない。
演奏力の差を突きつけられる。
そんな“壁”が一斉に押し寄せてくるのは分かりきっていました。
だからこそ小林さんは、いきなり作業に入るのではなく、鍋をしたり会話をしたり、まず彼らを知ることから始めたのです。
そしてそこで作られたとされるデモテープがこちら。
【MR.CHILDREN DEMO TAPE】
01. CHILDREN’S WORLD
02. 君の事以外は何も考えられない
03. 友達のまま
04. ゆりかごのある丘から
05. 力
06. トム・ソーヤの詩 (Live Version)
このテープは92年初頭に「メジャー・デビューに向けて、業界用に配布されたもの」という説明が残っています。
もちろん収録曲以外にもデモ音源は制作されており、田原さんは「緊張しましたよ。『君がいた夏』だったか『ため息の日曜日』だったかのスライドギターが、もう全然出来なくて、出足からつまずいてましたね」と、当時を振り返っています。
そして遂に…。
歴史が動き出す
さぁここから1st ALBUM『EVERYTHING』の制作がスタートします。
Mr.Childrenは1992年5月10日のメジャーデビューに向け、本格的なレコーディングへ突入。
次回はデビュー直前、『EVERYTHING』のレコーディングが開始されるところから解説していきます。
ここまでがMr.Childrenの歴史完全版「第0期」アマチュア時代 〜Mr.Children誕生〜1985-1992でした。
地元仲間で集まった少年たち。
バンド名も定まらないまま、何度も姿を変えながら鳴らした音。
ドラムが抜け、オーディションを前に立ちすくんだあの日。
そして、JENとの再会。
渋谷のロイヤルホストで決めた「Mr.Children」という名前。
ライブハウスLa.mamaで掴んだ30人の初期ファン。
そして、小林武史との運命的な出会い。
これは、“未来の日本最大のバンド”が生まれるためのプロローグです。
さぁ、ここからどんな物語が繰り広げられるのか、第1期からその全てを解説していきたいと思います。
【参考資料】
popsaurus mr.children
Mr.Children 道標の歌
別冊カドカワ 総力特集 2004年
Mr.Children Wikipedia
その他(雑誌名不明の切り抜き)


